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くりーたのブログ

くりーたのブログです。

「生々しい」という言葉

前置き

この記事は、2015年の11月に書いたものの公開するかしまいか逡巡した挙句、そのまま下書きとしてお蔵入りにしてしまった記事に加筆修正を加え、公開したものである。

 

なぜお蔵入りにしたのかというと、そこに深い意味はない。

あ、本当に深い意味はなくて、前編・後編の二本立て記事の前編を書いたはいいけど後編がどうしても書けなくて、後編が書けない以上、やむなく前編も公開中止という、ブログあるあるな(?)理由です。

 

ではなぜ今になって公開するのかというと、そこにも深い意味はない。

最近、というかここ一年近く更新が止まっていて、なんとなく寂しい感じがするので、かといって一から記事を書くのも面倒なので、昔書いた下書きをちょろっと編集して公開してみたという、これまたブログあるあるな(?)理由です。

 

ではなぜ、改めてわざわざこんなまどろっこしい「前置き」を書いたのか。

記事の第一文に「昨日の午後は「生々しい」という言葉についてずっと考えていた。」とある。この「昨日の午後」とは、2年前の11月の午後、晩秋の冷ややかな黄昏であって、2017年5月のゴールデンウィーク真っただ中、太陽の照り付ける爽やかな午後では決してない。

こんな天気のいいゴールデンウィークの午後に、「「生々しい」という言葉についてずっと考えて」いるほど、僕は暗くて暇な人間ではない。ということをアピールしたかったのである。要するに、過剰な自意識の表れである。

 

自意識はさておき、それは別としてもやはり、僕はこの記事が11月に書かれたものであることをどうしても伝えておきたかった。コンテンツには旬の季節のようなものがあって、例えば「怪談」などは夏に読むのがオツであるように、この記事は晩秋にこそ読むべきものである。僕はこの記事の生産者として、「この記事のおいしい旬は秋の終わり頃ですよ」と消費者の皆様にお伝えしておきます。

でもさすがに11月までは待てないので、公開しちゃいます。生産者の勝手をお許しください。

「前置き」が記事の分量の三分の一を超えようとしているので、いいかげん本題に入ることにする。皆様のゴールデンウィークがこの記事とは無縁であることを祈って。

 

 

「生々しい」という言葉

昨日の午後は「生々しい」という言葉についてずっと考えていた。

せっかく考えたのでここに書き遺しておこうと思う。各項はつながりがあるようなないような。とりとめのない与太話の寄せ集めである。

暇つぶしに何とは無しにこの記事を読み始めて、読み終わる頃に少々気分が悪くなっていたとすれば、筆者としてはこの上なく幸せである。

 

 

「生(なま)」のパラドックス 

「生々しい」とは奇妙な言葉である。同じ「生」の字を二つ重ねた言葉に「生き生き」という言葉があるが、「生々しい」と「生き生き」では受ける印象がまるで異なる。

もし殺人現場を目撃したり戦争を体験したりすれば、トラウマになるような鮮烈な記憶が脳に刻み付けられることだろう。そうした記憶は鮮やかではあるが、「生き生きとした記憶」とは通常呼ばれない。一般的に、血なまぐさい凄惨な記憶に対しては「生々しい」、楽しげで幸せな思い出に対しては「生き生き」の語が修飾語としてあてがわれることが多いように思う。

 

念のため辞書を引いておこう。

手元にある「明鏡国語辞典」によると、

【生々しい】きわめて新しい感じがするさま。また、その場の情景を目の前に見るように現実的であるさま。「生々しい事故現場」「被災者の生々しい体験談」

【生き生き】活気にあふれて勢いのよいさま。「生き生き(と)した表情[描写]」

とある。

 

「生き生き」の方は予想通りだとして、「生々しい」の説明はやや意外である。辞書の定義だけを見るとかなり中立的な言葉に見える。しかし、用例を見ると「事故現場」や「被災」など、やはりどこか陰のある言葉と結びついている(「きわめて新しい感じ」がしても、普通「生々しい新築物件」とは言わないだろう)。

 

「生々しい」という言葉に不穏な空気を―率直に言ってしまえば、「死の匂い」を感じてしまうのは私だけだろうか。「生々しい」という言葉は死んでしまったものにも付けることができる。「生々しい死体」というように。一方、「生き生きとした死体」など(実物としても文字列としても)見たことも聞いたこともない。

 

生と死を表裏に貼り合わせてしまったかのような「生々しい」という言葉。一見、矛盾しているように思えるが、その一方で、日本語を母語とする者として「生々しい」という言葉のもつ「生々しさ」はひしひしと感じている。「生々しい」という言葉でしか表せない、「生々しい」としか言いようがない事態があることも直感的には把握している。生とも死とも言い難い、「生(なま)」というパラドックスをどう理解すればよいのだろか。

 

 

菜食主義者と「命あるもの」

少し脱線する。

ところで菜食主義者は肉を食べない。曰く「命あるものはいただけない」と。

これに対しては必ず「植物には命が無いのか?」とお約束のように非難する者がいるのだが、ここは一つ、発想を逆転させてみよう―果たしてパックに詰められた「とりもも肉」に命はあるのか?と。

「とりもも肉」は脳も消化器官も持っていない。成長することもなければ生殖して増えることもない。「とりもも肉」にはどうやら命は無いようだ。よって菜食主義者が「とりもも肉」を食べたとしても、このことは全く彼・彼女の主義に反しないはずである。「とりもも肉」に命は無いのだから。

 

もちろんこれは屁理屈だ。「とりもも肉」にだってかつては命があった。かつてはニワトリの脚として大地を駆け回っていたのである。それに、菜食主義の本質は、「命あるもの」を食べないこと自体よりも、寧ろ不殺生の方にある(単に健康上の理由から菜食主義を実践している人も中にはいるが)。パックに詰められた「とりもも肉」は、ニワトリからかけがえの無い命を奪った結果なのだから、菜食主義者が「とりもも肉」を拒否するのは当然であろう。

 

それでも菜食主義者を揶揄したがる輩は一定数いるものである。ではちょっと想像してみてほしい。

もしスーパーの鶏肉売り場が、私たちが見慣れているように、予めカットされ、発泡スチロールのトレーの上に見栄えよく盛り付けられ、清潔にパックされている肉がずらりと陳列されているようなものではなかったとしたら。

注文すると店主が生きたニワトリを捕まえ、目の前で首をはね、皮を剥ぎ、血や臓器を抜き取り、必要な部位を切り売りする方式だったらどうだろうか。

目の前で殺さないにしても、割と原形をとどめた形でニワトリの肉が丸ごと吊り下げられていたらどうだろうか(欧米の肉屋はこういう店が多いようだが)。

 

もしスーパーの肉売り場が上記のようであれば、私たちのうちの少なからぬ数の者が、もしかしたら菜食主義者になっていたかもしれない。倫理的理由からというよりは、目の前の光景の生々しさに食欲が減退してしまうことによってではあるかもしれないが。

 

 

「生々しさ」の縮減=文明化

現在の私たちが見慣れている肉は、「 予めカットされ、発泡スチロールのトレーの上に見栄えよく盛り付けられ、清潔にパックされている肉」である。そうした綺麗に整った肉には最早、生前の面影はない。

もちろん現代人の多くは知識として、目の前の赤色の長方形や直方体が牛であることを知ってはいる。しかし、それが牛の(いやな言い方をすれば)死体の一部であることを実感をもって認識している人、さらに生前の牛を偲ぶ人はそう多くはないだろう。

 

生前の面影とはまさに「生々しさ」である。

血を抜かれ、裁かれ、整形され、パックに詰められ、商品棚に陳列される過程の中で、肉の持つ「生々しさ」はどんどん縮減されていく。人工的なビニールのパックに包まれた肉は、あたかもそれ自体が人工物であるかのように、私たち消費者の前に立ち現われる。

しかしそれは、高度に文明化された牛の死体に他ならない。食い食われるという営みが持つ「生々しさ」を、丁寧にかつ巧妙にビニールのオブラートで包み隠した牛の死体。

私たちの文明は、様々なテクノロジーを駆使して「生々しさ」を縮減しているのだ。

 

別に文明批判をしたいわけじゃない。そのおかげで私たちは、古人が感じていた「穢れ」や忌避感なしに、気持ちよく肉を消費することができるのだから。文明化の過程とは、「生々しさ」の縮減の過程でもあったのかもしれない。

 

 

痙攣する肉

最後にさらに脱線してしまうが、ネット上で面白い記事を見つけた。

中国の女性が肉屋でステーキ用の牛肉を買ったのだが、家に帰っていざ肉を調理台に乗せてみると、なんと驚いたことにその肉はピクピクと痙攣していたのだそうだ。屠殺して間もない「生きの良い」肉はしばしばこうなるのだという。

spotlight-media.jp

 

果たしてこの肉は生きているのか、それとも死んでいるのか。私には分からない。

ただ、「生々しい」ことだけは確かである。

 

 

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そういや「生々しい野菜」ってあるのかね。

あ、ちなみに筆者は野菜も好きだけどお肉も好きです。

ということで、じゃあねー☆

 

後記:公開してから気づいたのですが、はてなブログの仕様で、記事の日付は記事の公開日ではなく、記事を書き始めた日(もしくは初公開日?)になるようですね。あの長い前置きはいったい何だったのか。