くりーたのブログ

くりーたのブログです。

ハワイを知らない僕らは生きる意味を求めて彷徨う

一昔前、ツイッターでこんなジョークが流行ったことを覚えているだろうか。

 

「先生、なぜ日本人は事あるごとに『死にたい、死にたい』と口にしているんですか?」
「あれは正確に翻訳すると『自分の今やらなければいけないことを全て放り出してハワイに行きたい。ハワイのビーチに行きたい』ぐらいが正解だ」

 

先日、僕はいつものように生きる意味が分からなくなり、何となく死にたい気分に襲われていたのだが、その時に、何故だか自分でもよくわからないのだが、ふと、このジョークを思い出した。

その瞬間、ある考えが僕を訪れた。「洞察」と言ってもよいかもしれない。何についての洞察かというと、死にたい気分と生きる意味、そしてハワイについての洞察である。今日はそのことについて話をしたい。

  

上のジョークはおそらく、日本語教室の先生と生徒の会話であろう。

「なぜ日本人は事あるごとに『死にたい、死にたい』と口にするのか」という生徒の疑問に対し、先生が「あれは『自分の今やらなければいけないことを全て放り出してハワイに行きたい。ハワイのビーチに行きたい』ぐらいの意味だ」と答える。

外国人に仮託して日本人の心性を鋭くかつ面白おかしく捉えたジョークである。2年程前に初めてこのジョークを見たときはニヤリと笑ってそれで終わってしまったのだが、今回は、僕はこの先生の答えに衝撃を受けたのである。 

 

ところで、僕のような根暗な青年にとって、「死にたい」気持ちは「生きる意味」に直結している。「生きる意味」が無いならば生きていても仕方がない、だったら死にたい。となるのである。僕のような人間にとって、目の前のやらなければならない仕事は寧ろ気を紛らわせてくれる慰みである。目の前の仕事に熱中している時はよいのだが、ふと顔を上げて視線を遠くに移した時、その先は暗闇であり虚無であり、僕は絶望する。

「人はなぜ生きるのだろうか。誰かに必要とされるため?世界を変えるため?なぜ?」

この問いは出口のない迷路だ。そして僕はこの迷路に出口が無いことを薄々知っている。それにもかかわらず、僕は出口を求めて迷路を彷徨い続ける。時には、自分の頭の中に「出口」をでっち上げて、その存在を信じ込もうとさえする。しかし、結局のところ出口など存在せず、生物学的な死が訪れるまで、何度となく、出口の不在を確認しては繰り返し絶望するのである。

 

ジョークの中の日本人がどのような思いで「死にたい」と口にしたのかは分からない(現代日本語における「死にたい」は、「つらい」「恥ずかしい」「かまってほしい」等々、様々な心情を表す多義的な語句である)。しかし、もし彼が僕と同じような根暗青年だとしたら。

 

そんな僕らの「深刻な」悩みを、日本語学校の先生は一蹴する。

「お前ら、ハワイに行きたいんじゃないの?」

 

ハワイ!

 

僕は先生の答えに衝撃を受けた。何故なら、僕は幾度となく死にたい気分に襲われてきたが、その理由はいつも「生きる意味がわからないから」であって、南国のリゾートアイランドのイメージが頭に浮かんだことなど今まで一度もなかったからだ。

しかし、言われてみればそうなのかもしれない。僕はハワイに行きたかった。

 

僕たちは誤って問題を捉えていた。僕たちの悩みは偽物の悩みだったのである。「生きる意味」なんてものはどうでもいい(そんなものはない!)。本当の問題は、僕たちの知識の浅さと経験の貧困さ、つまりハワイを知らないことにある。

 

僕たち根暗青年のうち、何人が実際にハワイに行ったことがあるだろうか。メディアを通して全てを知った気になって、行きたいとすら思ったことがないのではないか?

そこには「生きる意味」などどうでもよくなるような、生きる喜びに満ち溢れた世界が広がっているかもしれない。それは本当にハワイに行ってみなければ体験できないことである。

別にハワイじゃなくたっていい。(根暗青年なのであまり具体的な例が出てこないのだが)例えば、美味しいものを食べるとか、流行の映画を観るとか、友達と遊ぶとか、恋人とイチャイチャするとか、ピクニックに出かけるとか何でもいい。生きている中で手に入り得る、ささやかだが確かにそこにある喜びを、各自で「ハワイ」に代入してもらえればいい。

  僕たちは落ち込んで暗い気持ちになった時、「何か楽しいことをして元気になろう」という発想自体が出てこない。そもそも「楽しいこと」をあまり知らない。

 

ハワイを知らない僕らは生きる意味を求めて彷徨う。

 

しかし、死にたがりの僕たちに本当に必要なのは形而上学的な思弁ではない。ハワイなのだ。抽象的で透明で虚ろな「人生」という概念に、色とりどりの、瑞々しくて、どろどろしていて、香しい「ハワイ」をいっぱいに塗りたくるのである。

 

幸いにして僕たちの生きている時代は、天国や神様を信じなければやってられないというほど貧しい時代ではない。バイトでもして小金を稼げば誰だってハワイに行ける程度には豊かな時代である。

僕も今年の冬、お金を貯めてハワイに(別にバリでもサイパンでもグアムでもいいのだが。どこがいいのか後で調べてみよう)、ただひたすら喜びと楽しみのためだけに旅行をしたいと思う。

あるいは来年の夏にでも、鹿児島にある有名なかき氷屋の「しろくま」がとてもおいしいと九州出身の友人が言っていたので、それを食べに行くのもいいかもしれない。そのためにはお金が必要だ。バイトを始めなくては。大学構内のサブウェイなんてどうかな・・・。

 

僕たちに必要なのは苦しみへの意味付けではなく、楽しみそれ自体なのではないだろうか。

「ハワイ」に行けば、そして心の中に自分の「ハワイ」を持つようになれば、死にたくなった時、「生きる意味」を探すよりも、もう少しマシなことを考えられるようになっていると思う。

「そうだ、ハワイに行こう」って。

 

以上が、夏の終わりの夕暮れのコンビニからの帰り道、死にたがりの僕をふと訪れた、死にたい気分と生きる意味、そしてハワイについての洞察である。